papa bear

 Bさんは自分のことをよく「Papa Bear」と呼んでいました。その名の通り、Bさんは大きい体に、いつも微笑んでいる細い目で、包容力たっぷりの雰囲気がありました。父親と言うのにはちょっと若かったかもしれませんが、私のことを先生というよりは、まるでおもしろい娘の話を聞く父親のような感じで接してくれました。

 Mさんの家には毎週2回レッスンに訪れていました。一人暮らしとは思えない広さのダイニングキッチンは、テキストブックの字が読めるくらいの明るさの照明で、まるでバーのようなおしゃれな雰囲気がただよっていました。Mさんは私の斜め横にすわり、私の顔をやさしく覗き込むように話し始めました。「君の前にきた日本語の先生はひどかった。すぐに使えるフレーズを勉強したいのに、ひらがなだけを何週間も教えられたんだ」

 おそらくその先生は日本語教師養成講座で教えられたように、ひらがなの読み書きから始めて文法を教えるつもりだったのでしょう。日本語をしっかり学びたい学生のためには、効果的かもしれませんが、Mさんのように、日本に着いたその日にレストランで使えるフレーズを知りたい人には向いていません。特に徹底した菜食主義者(ビーガン)であるMさんには食べ物の話は重要です。

 早速私たちは「肉、魚、卵たべません。」「私はベジタリアンです」というようなフレーズを練習しました。ベジタリアンとビーガンは厳密にいえば違うのですが、日本ではまだビーガンと言う言葉は十分に浸透していなかったので、「ベジタリアン」を使いました。また、メニューをみてすぐわかるように「肉」「魚」の漢字を教えました。

 そんなレッスンが功を奏したのか、Mさんは私のことを非常に気に入ってくれ、レッスンに行くたびに美味しいビーガン用のジュースや食べ物を出してくれるようになりました。時には、日本語の勉強そっちのけで食べ物の話だけをすることもありました。「こっちに来て」とカウンターキッチンの中に私を呼び様々なビーガンフードの説明をしてくれました。わたしが冷蔵庫にふと目をやると、男の人の写真が冷蔵庫の扉一面にはってあるのに気づきました。

 「これは息子。・・・それからこれはパートナー。もうすぐ日本に来るんだ。」

パートナー。友達ではなく、パートナー。なるほどと思いました。私は特に驚きもせず「やさしそう」とだけ答えました。Mさんはうれしそうに、「He is cute. my cub. you know, I'm papa bear. He is my cub」と言いました。訳してしまうと変な感じですが、お父さん熊に子熊といったかんじでしょうか。ふわふわのMさんの腕の毛と写真の中のちょっと毛深い感じの彼をみて、二人がまさに親子の熊のように抱き合っているところを、私は想像しました。

 またある日のこと、レッスン中に宅配便が届きました。「元妻からだ」といいながらワクワクした様子で箱を開け始めました。中にはぎっしりと缶詰やレトルト(?)のような食材が入っていました。「彼女とは離婚した後もいい友達なんだ。私がビーガンなのを知ってるから時々食べ物をおくってくれる。」

 Mさんはバイセクシャルだったのです。奥さんと子供をつくったものの、違和感を感じ離婚を決めました。それからはゲイとしてパートナーといっしょに生活をするようになったのだそうです。

 カミングアウトと言うほど秘密めいた感じもなかったのですが、それからはゲイに関する話題が頻繁に上るようになりました。

「この間、近くのゲイバーに行ったらかわいい男の子がいたよ。」「日本にはペニスのお寺があるね。行ったことある?」と写真をみせてくれたり。レッスンの半分はそんな話で終わってしまいます。たいしたこと教えてなくて申し訳ないと思いつつも、Mさんの楽しそうな顔、そして毎回お土産に持たせてくれるお菓子の袋を見ると、「ま、いいかな」と思いました。ただ、そんな話の帰り道はなんだかちょっぴり変な気分で女として興味を持ってくれてないことが寂しくも思えました。

 そうして半年くらい過ぎたころに、ついにMさんの子熊さんが日本に来ることになりました。彼もきっと一緒にレッスンを受けたいだろうと言っていましたが、その後、レッスンをリクエストすることはありませんでしたが、ある日、Mさんから、不要な自転車があるからよかったらあげるというメールをもらいました。喜んで主人と二人で取りに行ったところ、仕事中のMさんの代わりに、マンションの駐輪場に子熊さんが現れました。小熊さんはとてもシャイで「Hello」とだけいい、すこしもじもじとした様子で私たちが自転車を運び出すのを見ていました。

 それからのち、Mさんとはあっていません。きっと小熊さんは二人の時間を邪魔されたくないのかもしれません。結婚して子供が2人もいる私がこんなことを書くと変かもしれませんが、「I'm papa bear, He is my cub」というMさんの言葉を思い出すと、ちょっぴり小熊さんのことをうらやましく思ってしまうのです。


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