他の人になりたい

 S君はとても熱心な生徒で、レッスンの時には自分が好きな日本のテレビ番組の聞き取りれなかったところをを確かめ、それをそっくりそのまま覚えていました。まるでオウムのようにそっくりそのままコピーするのです。発音、イントネーションも、完璧です。目をつぶって聞いていれば、本当に日本人のようでした。

 ただ、困ったことに彼がまねをするのはテレビの司会者や、ラジオのホストだったので、生徒である彼が「さあ、次の話題にいってみましょう!」とレッスンの進行を仕切ってしまうのです。また彼の大好きなバラエティー番組では、よく芸人さんたちが「はあ!?」と大袈裟に驚いてみせたり小ばかにして笑いをとることがあるので、そんな言い方さえも真似してしまい、普段の会話ではそれが不自然であり、失礼であることをいちいち伝えなければいけませんでした。

 そんなある日彼が、実は普段は職場などでほとんど話さないこと、いつも自分はおどけたことしか話さないということを打ち明けてくれました。彼は小さいころ太っていていじめにあったことから、普通にクラスメイトと話せなかったそうです。「僕ね、子供のとき、今より太ってて虐められてたんです。だからクラスではいつもクラウン?日本語で道化師?で、ばかなことしかいいませんでしたね。」そんな中で、小さいころにテレビかなにかで聞いた日本語がおもしろくて真似しているうちに、日本語を話している時の自分はいつもの自分ではない、陽気で人気者になったような気がしてきました。「日本語話してるときは、本当の自分じゃない気がするんですよね」

 

自分の意見を伝えるための手段である言語が、本来の目的から外れ、自分を隠すための道具として使われていたのです。


 動機はどうあれ、おかげで彼の日本語は見る見るうちに上達し、しまいには日本人の彼女もできました。陽気でおどけた自分を日本語で演じているうちに、仮面であったはず彼は本当に彼になったんじゃないかと思います。自分と向き合わない彼にすこしいら立ちを覚えていた私でしたが、そういうのもありなんだなあと思いました。

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